自分と他者の裁量

最近、つい最近本当に数年単位ぶりに異性に告白された。
「いいだせなかったけれど昔からきらいでした」とかそういうんじゃなくてw

で、思ったこと。
その人の望む事はすけてみえていたし、生活における理想もなんどかきいていた。
だからその希望に時間的にも金銭的にも沿えないことはわかっていたし、相手が感情がだだもれるタイプなので、その告白自体驚きもしなかった。
今だに私のことを思ってくれる人がいるんだってのは、とても有り難かったけれど。
希有な数人としてちゃんとおぼえておきたい。なんなら手帳にかくし日記にはもう書いたw
でもわたし、もう私の人生の裁量権が全然ないのですよ。

まあ、実家でくらして、年とっておはようからおやすみまでとは言わないけれど、見守る事が日々ふえる親がいるかぎり、自分の人生を裁量して(家からでてくとかの)決断するなんてもう状況として許されないわけで(勿論親は許してくれそうだけれど、私ができない)。
と、滔々と相手に説明してて、悲しくもないあたりが私のだめな所だな、ってなりました。

相手のことが好きとか嫌いとかじゃなくて、私の人生は、本家の跡継ぎを断った25の頃からずっと余生だったからだし、それまで取り戻したかった自分の人生なんて、戻ってみたら<何をしていいか解らない不安>しか残らないものだったってのが大きいし、尽力してくれた親族の「余生だっとおもって」が恐らく尾をひいてるのもある。
その言葉が呪いとかはいわないよ。
だって取り戻せたのは事実だし。
実親が色々してくれて身につけた技術も、勉強した多くの知識も、ネットする位以上にはたいして何も役立てずに、結局家事手伝いみたいな状況で、それこそもうこれを逃したら一生他人の籍に入ることなんてないだろうってのをみすみす(親にもいわず)手離すわけですが、まあ私じゃなくてもその人はいいし、その人の望む理想の状況に私はフィットしないし、そのかたはずっと若いし、いいひとみつけてね、という他人の心で対応してしまった。
つまり
家の犠牲とかじゃなくて、私が私の人生がんばらなきゃって気持が多分あまりない。
年とかじゃなくて(それは環境要因としてはあるけれど)多分25からずっとこうだ。
こういうところが、私が私の人生を手にできなかった原因なんだけれど。

他人の人生をその他人の目線で見たいって思うことがたまにあるけれど、
ほかのひとが手にしてる人生は、ちゃんと自分の人生だって実感があるのだろうか。
そのへんがなぞだ。
多分死ぬ迄ずっと謎だ。

あ、死は私は多分<私個人のもの>として捕らえられると思います。
でも痛みはだめだ。痛いと他人の目線になるw(訓練の結果)